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ラタットラタラタ

 彼は、私のことを「ラタ」と呼ぶ。
 もちろん私は外国人じゃない。金髪碧眼でもなければ、英語もしゃべれない。黒髪黒目の、生粋の日本人だ。
 じゃあ、どうして「ラタ」なのか。それは、私の名前に理由がある。

 私の本名は、平田昌(ひらたあきら)という。
 あきら、なんて名前だけど、れっきとした女子だ。
 男っぽいこの名前で、何度からからかわれたことか。つけてくれた両親には申し訳ないが、ちょっとばかし恥ずかしかったりもする。なんてことを、出会ってすぐに彼に言った。すると彼は、

「じゃあ、ラタって呼ぶね」

と言ったのだ。「ひらた」のらとたを取って「ラタ」。なんて斬新な名付け方だろう。普通に名字でいいんじゃないかと思ったし、こんなあだ名、今までつけられたことないぞとも思った。
 案の定、今のところ彼しかこのあだ名で呼ぶ人はいない。
 なぜだろう?そう思って共通の友人に尋ねたことがある。すると友人は、至極微妙そうな顔で言った。

「だって、お前らの間の空気見てりゃあ……

 ふむ。よくわからない。
 けれど、一人しか呼ぶ人のいないあだ名というのは、なんだか特別感があってすごく好きだなと思った。ラタ、という響きも気に入っているし。
 名付け親である彼にそう伝えると、それはよかった、と微笑みつきで言われたのと同時に、

「じゃあ、もっと特別な関係にならない?」

と言われた。それが、一年前、よく晴れた冬空の下だった。




 昇降口から外に出ると、ここ数日の凍てつくような寒さが嘘のような暖かい風に体を包まれた。

「おー、寒いっ」

 それでも、染みついた口癖は治らなくて、無意識のうちに寒いと口から飛び出す。それを聞いた春彦先輩は、今日は寒くないだろと言って、呆れたように笑った。

「これは口癖だから気にしないでください」
「ふーん、じゃあ、いつものお腹空いたーも気にしなくていいんだね?」
「うっ……、それは気にしてください」

 春彦先輩は、私の言葉を聞いて、はははっと笑い声をあげる。それがなんだか照れくさくて、私は首に巻いてあるマフラーで口元を隠した。



 彼、安堂春彦(あんどうはるひこ)とは、高校一年生の時に委員会で知り合った。一年生の二学期に入った美化委員で出会ったのが始まりだ。
 先輩は二年一組の美化委員で、私は一年五組の美化委員だった。
 なぜだか知らないけど、いつの間にか意気投合して、お互い「春彦先輩」、「ラタ」と呼び合う関係になった。たぶん、先輩の持つ不思議な雰囲気のせいだと思ってる。

 先輩は、春風のように穏やかで。かと思えば、夏の容赦ない日差しのように底抜けに明るくて、秋の澄み渡った青空のように飄々としていて、冬の木枯らしのように哀愁をただよわせる。まあ要するに、

……気分屋ってことですよね」
「ん?何か言った?」

 おっと、思わず口に出てしまったみたいだ。春彦先輩が、不思議そうに首を傾げて私を見てくる。慌てて、何でもないと答えると、そう、と言って引き下がってくれた。

 そう、気分屋。なんてぴったりなんだろう。先輩を表すのにぴったりじゃない!思わず、自分で自分の頭をよしよししたくなっちゃうよ。
 なんて思っていると、いつの間にか口角が上がっていた。くふふ、という変な笑い声が口からもれる。すると横を歩いていた先輩は、不審者を見るような目で私を見てきた。なんて失礼なんだろう。仮にも、可愛い可愛い恋人に向かって。
 「恋人」。自分の頭に浮かんだ単語に、今度はかあっと頬が熱くなった。がら空きだった両手を伸ばして、両方の頬を触ってみる。ぺたぺた。そこは、いつもより熱を持っているような気がして、私は口元まで引き上げていたマフラーを、今度は目の下まで引っ張った。

……何してるか、聞いてもいい?」
……何してるように見えますか?」
「うーん、変質者ごっこ?」

 少し考えて言われた。まあ、なんて失礼なんでしょう。いくら、マフラーで目しか見えてないとは言え、まだうら若き女子高生に向かって。

「失礼しちゃいますね、先輩」
「いやいや、今のラタの格好見たら、誰でもそう思うからね?」

 むう。速攻で否定する先輩に、マフラーの下で頬を膨らませる。だけど、それには先輩は気づかなかったらしい。言ったっきりで前を向いてたったと歩いて行ってしまう。何だか、ちょっと悔しい。
 前を行く先輩の、空いた右側の手が目に入る。ぷらぷら。ぷらぷら。何かを待つように、求めるように空っぽの空いた手。その手と、私の手を見比べた。寒さで少し赤くなった手。先輩のも、指先がちょっと赤くなっている。

「せんぱいせんぱい」
「はい、なんでしょう?」
「私、今日手袋忘れてきちゃったんです」

 背中に向かって話しかける。そっかーと気のない返事。
 違う。私が求めてた答えと違う。

「せんぱいせんぱい」
「はーい」
「私、今、手冷たいんです」

 そう言って、今度はその場に立ち止まってみる。すると先輩も、少し先で歩みを止めた。
 ゆっくりと、広い大きな背中が振り返る。冬なのに暖かい風が吹いて、先輩の前髪を揺らす。

「ラタ」
「はい」
「今日は、いつもよりあったかい日です」
「はい」
「俺は、別に手は寒くありません」
……はい」

 真面目に言う先輩。それがなんだかおかしくて、またマフラーの下で笑ってしまう。

「でも、ラタが寒いって言うなら」

 そう言って先輩は、右手を前に差し出す。男の人なのに、骨ばったりしてない色白の手。先輩は、照れくさそうにそっぽを向いている。

「んふふふふ」

 つい、口から変な笑い声が出た。自分でもびっくりするぐらい変な声。でも、びっくりしたのは私だけじゃないみたいだ。そっぽを向いてた先輩も、びっくりした顔で私を見てる。

「何その笑い声!」
「いいじゃないですか」

 先輩のところに向かってダッシュする。そして、その空いた手をむんずと掴んだ。
 温かい。私と、先輩の体温が混ざり合って、繋いだ手と手でおっきなぬくもりになる。

……みんな見てるよ」
「いいじゃないですか。寒さが優先です」

 校門に行くまでの道は、下校する生徒でいっぱいだった。普段なら、絶対に先輩はこんなに人目のつくところで手なんか繋いでくれない。なのに、今日はしてくれた。ということは、先輩も気づいてるんだろうか。

……ねえねえ先輩?」
「はい、なんでしょう」
「今日って、特別な日なんですよ?」

 マフラーを顎の下までおろして、とびっきりの上目遣いで聞く。すると先輩は、ちらりと私の方を見た。その頬は、刷毛で赤い絵の具を塗ったみたいに色づいている。


……特別な関係になろっか」


 一年ぶりに聞くその言葉を聞いて、私ははいっ!と大きく頷いたんだ。

 
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